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海と山にはさまれた旧東海道。その下に育った現代の世界を越えて、名高い眺めだけが今も残る。
Roads of the WorldThe Old Roads

薩埵峠——広重が立った場所で、富士はいまも待っている

海と山にはさまれた旧東海道。その下に育った現代の世界を越えて、名高い眺めだけが今も残る。

薩埵峠への登りは、由比の町を見下ろすみかん畑のなかから、静かに始まる。道は細く、両側を石垣に囲まれ、しばらくは青い葉と、足もとの埃っぽい道のほかに何も見えない。やがて木立がまばらになり、右手の地面がすとんと落ちると、駿河湾のすべてが一度に開ける——平らで、銀色で、果てしなく——その向こうに、富士が水を越えてくっきりと立ち上がる。

今日の日本で、もっとも写真に撮られる眺めのひとつだ。けれどその名声は、カメラが生まれるよりずっと前からあった。絵師・歌川広重は、一八三〇年代に描いた『東海道五十三次』の由比の一枚で、この景色を画面の中心に据えた。岩棚に小さな旅人たちを置き、崖の下の湾をのぞきこませ、波の上には富士を浮かべた。よく晴れた冬の朝に峠へ立てば、彼が見たものがそのままわかる——山と、弧を描く海岸線と、海から立ちのぼってくる光と。

東海道で最も恐れられた難所

東海道は、江戸時代の大動脈となった海沿いの街道で、将軍の都・江戸と、帝の都・京都を結んでいた。そのほとんどは、平らな海辺や川の平野を通っていた。けれどここ、由比宿と興津宿のあいだでは、薩埵と呼ばれる急な岬が海へまっすぐ落ち込み、道には迂回する余地がなかった。

何世紀ものあいだ、旅人は引き潮を待ち、崖の足もとの濡れた岩を、波と競うように駆け抜けるほかなかった。波にのまれ、命を落とした者も多い。十七世紀になってようやく、岬の上を越える山道が切り開かれた——歩く人が今もたどる、あの道だ。命を救った迂回路は、はからずも、日本でもっとも名高い街道の眺めを生むことになった。

その緊張は、今も目に見える。峠から見下ろせば、同じ細い土地の棚に、三つの交通が積み重なっている。あなたの立つ旧東海道の歩道、海岸線に寄り添う鉄道、そして海と斜面のあいだにコンクリートの脚を渡す東名高速。三世紀ぶんの往来が、薩埵が残したわずかな隙間に押し込められている。不思議と胸を打つ光景だ——そして富士は、何ごともないように、そのすべてを見守っている。

道のあとに残る、興津

峠の西側を下りていくと、興津に出る。かつて東海道十七番目の宿場だった町だ。当時は、登りを終えた旅人が休む旅籠や茶屋が並んでいた。華やかな大名行列も、名高い旅人たちも、今はもういない。興津は、ふつうの海辺の町の静けさのなかに落ち着いている。

けれど町は、自分が何であったかを忘れていない。興津には、何百年も前に開かれた禅寺・清見寺がある。その庭は代々手入れされ、かつては武将や茶人たちが松の下で憩いを求めて訪れた。近くには坐漁荘が建つ。明治の政治家が、おだやかな冬と、広重が愛したのと同じ湾の眺めを求めて選んだ、海辺の別荘だ。今は訪れる人に開かれ、木の部屋が、その主の望んだとおりに水辺を切り取っている。

これが、旧街道の贈りものだ。幹線は先へ移っていった——鉄道へ、高速道路へ、現代の速さへ。あとに残されたのは、もっとゆっくりとした、もっと人らしいものだ。寺の庭、静かな別荘、丘のみかん畑、そして、かつて絵師が立った場所にそのまま立ち、ほとんど変わらない眺めに出会える一本の小道。

自分の足で歩く

薩埵峠の道は短い——由比駅と興津駅のあいだを、一、二時間ほど。富士がもっともよく姿を見せる、晩秋から早春の、寒く澄んだ季節がいい。由比は桜えびでも知られる。駿河湾から揚げられた小さな桃色の海老が、海辺で淡く光る桃色の畑となって干される。それをご飯にのせた一杯が、登りのあとの、土地ならではのごほうびだ。

この東海道の一区間を、眺めがもっとも冴える時に歩いてみたいなら、私たちのJourneysが、季節に合わせて旅の時期を選び、旧宿場の近くの宿を手配する手伝いをします——あなたもまた、夜明けの光のなかであの岩棚にたどり着き、あとは山にゆだねられるように。

この記事の一部の画像と下書きは、文化考証にもとづきAIを用いて制作しています。特定の実在の場所・人物を撮影した写真ではありません。最終的な編集と文章はKAIDO Journal編集部が監修しています。

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